『密室のパラノイア 天久鷹央の推理カルテ 完全版』を読み終えて残った不安と確信 天久鷹央という医師の輪郭
閉ざされた空間、疑いの連鎖、医学的な説明と心理的な圧迫感が、きれいに整理されるというより、むしろ「整理されすぎないまま」残っている感じがします。シリーズの中の一編としての位置づけや、医療ミステリというジャンルの枠組みは事前に把握していましたが、読みながら意識していたのは、事件そのものよりも、登場人物たちがその状況にどう反応していくかでした。
1. 密室という言葉に引っ張られながら読んでいた序盤
本作は、医療機関を舞台にした密室事件が描かれる一編で、シリーズの中でも比較的初期に位置づけられる作品です。密室という言葉がタイトルに入っている以上、私はどこかで「仕掛け」や「構造」に意識を向けながら読み始めていました。
ただ、読み進めるうちに、事件そのものよりも、登場人物たちの視線や思考のズレの方が先に目に入ってきました。天久鷹央という人物が持つ、医師としての知識や観察力が、淡々と示されていく一方で、周囲の人間が抱える不安や疑念が、密室という状況と絡み合っていく感じがありました。
密室は確かに物理的な条件として存在しているのに、それ以上に「閉じた状況の中で疑心暗鬼が増幅していく空気」の方が印象に残りました。このあたりで、私は純粋なトリック当てを期待する読み方から、少しずつ距離を取っていたように思います。
2. 医療ミステリとしての距離感と、読者としての引っかかり
シリーズ全体に共通する特徴として、医学的な知識や医療現場の描写が物語の土台にありますが、本作でもその要素ははっきりしています。ただし、専門的な説明が前に出すぎるというよりは、事件の背景として自然に置かれている印象でした。
私は医療の専門家ではないので、細部を完全に理解できているとは言えません。それでも、「分からないまま置いていかれる」という感覚はあまりなく、物語の流れについていくこと自体は難しくありませんでした。
一方で、読みながら少し引っかかったのは、密室という状況に対する登場人物たちの反応でした。冷静さを保とうとする人と、疑念を募らせていく人との差がはっきりしていて、その落差が意図的に描かれていることは分かるのですが、私はそこで少し息苦しさを感じました。
それは物語が悪いというより、閉じた環境で人の心理が歪んでいく様子を、真正面から描いているからこその感覚だったように思います。
3. 天久鷹央という存在が作る安定と不安定
天久鷹央は、シリーズを通して一貫したキャラクター性を持つ人物ですが、本作でもその特性は明確です。論理的で、感情に左右されず、医学的な知見を武器に状況を整理していく姿は、読者にとって一種の「軸」になります。
ただ、その安定感があるからこそ、周囲の人物たちの不安定さが際立つ構造になっているように感じました。
私は読みながら、「この人がいれば大丈夫だろう」という安心感と、「それでも空気は重たいままだ」という違和感を同時に抱えていました。密室という条件は解決に向かって進んでいるのに、感情の面ではなかなか解放されない。そのズレが、読み終えたあとにも残った要素の一つです。
4. 読後に残ったのは解決感よりも居心地の悪さだった
事件が収束に向かい、事実関係が整理されていく過程は、ミステリとして納得できるものでした。密室という状況についても、作品の中で提示される情報を踏まえれば、大きな矛盾を感じることはありませんでした。
それでも、読み終えた直後に強く残ったのは、すっきりした解決感よりも、「あの空間に長くいた後の疲労感」のようなものでした。
これは、おそらく作品が描いているテーマや空気感と深く結びついているのだと思います。理屈では整理できても、人の疑念や恐怖は簡単には消えない。その感覚を、読者として追体験させられたように感じました。
5. おすすめできるかどうか、少し迷いながら
この作品をおすすめできるかと聞かれたら、私は少し言葉を選びます。
密室ミステリとしての仕掛けや、医療要素を絡めた論理展開を楽しみたい人には、十分に読み応えがあると思いました。一方で、読後に爽快感や軽さを求める人にとっては、やや重たく感じる部分もあるかもしれません。
私自身は、読み終えてから時間が経った今でも、あの閉じた空気や、人の疑念が積み重なっていく感覚を思い出します。それが心地よかったかどうかは、正直なところ判断が分かれます。ただ、「何も残らなかった」とは言えない読書体験だったことだけは、はっきりしています。
天久鷹央の推理カルテというシリーズの中で、本作はその世界観や作風を理解する一つの入口になる作品だと思いました。合うかどうかは読んでみないと分かりませんが、密室という言葉に少しでも引っかかるものがあるなら、その違和感ごと体験してみる価値はあるように、私には思えました。